劇評
暗闇が掴んだことのない光 / LIVE RALLY(2022年)
2022年12月18日、東京公演の千秋楽を観に三鷹にあるSCOOLへ。本作はそのほぼ全編が、照明効果のない暗
闇の中で上演されるという。とくに暗所恐怖症の自覚があるわけではないものの、アナウンスのあとにゆっくり
と場内が溶暗していくときには、やはり少しだけ不安な気持ちになった。ここからは、目を開けているのか閉じ
ているのかが自分でもわからないような完全な暗転状態のなかで、役者の声と効果音だけを頼りに芝居を鑑賞す
ることになる。
観客に課せられたこの一方的とも言える環境変化は、7歳のときの事故で突然に視力を失ったという後天盲の
少女「詩乃」の境遇と重なる。彼女の住まう「常夜の国」は、視覚情報を遮断することで差別や攻撃のない平安
の実現を謳った理想郷だが、そこに偶然、目の見える男「山本」が現れる。暗闇の中でお互いにその姿かたちの
わからないままに、二人は出会う。(そしてもちろん、私を含む観客もいまだ彼らの顔を見てはいない。)
山本「ねぇ、君、怖くないの…?」
詩乃「暗闇はいつものことなので。」
山本「それもだけど、そうじゃなくて。」
詩乃「何がですか?」
山本「俺が誰なのか分からないでしょ。ほらもしかしたら、ここから出たら実は殺人犯とかかもしれな
いんだよ。」
(中略)
詩乃「そういうの、ここでは冗談でも駄目ですよ。」
(上演台本より / SCENE 3 穴)
そののち二人は、過去の回想のようでありながら、どこか不自然な歪曲を感じさせるばらばらなシーンの連続
を辿っていく。しかし、あらゆる輪郭が自他を失うことを半ばその目的として用意された、暗闇という条件のな
かでは、彼らの記憶や認識はみるみる曖昧になり、次第に疑心へと陥っていくのだ。
物語も中盤に差しかかる頃、「常夜の国」では貴重な光源であるマッチを「山本」が手に入れてしまうことで、
場内は、思いがけず一瞬ばかりの劇的な照明効果を得ることになる。まるで戯画のように驚愕した山本の表情。
壁に映ったゆららかなその影絵は異様に巨大であり、得体の知れないもののように感じられる。観客の誰もが待
ち望んでいたであろうそのまばゆい明るさに、途端に見入ってしまう一方で、ふとこの演劇が、案外に視覚優位
であることに気付かされる。
考えてみると二人には、暗闇のうちに留めおかれているにもかかわらず、視覚以外の五感を駆使しようとする
様子が見られない。例えば、聴覚を研ぎ澄ませて洞窟のコウモリのようなエコーロケーションの能力を習得した
り、あるいは手のひらで人やものに触れることで触覚的イメージを形成するような、体性感覚に基づく行動をと
ろうとはしないのだ。彼らは、暗闇のなかにあっていまだ風景を夢見ている。そもそもが晴眼者である「山本」
の言動にその傾向があるのは不自然ではないにしろ、盲者となってから日の浅くないはずの「詩乃」の想起の仕
方があまりに映像主体であることは、ほとんど視覚というものへの固執を感じさせるほどだ。
山本「君にはどんな海が見える?」
詩乃「どんなって…何も見えないじゃないですか。」
山本「俺にはね、夕陽が沈む時の水面が光ってて、遠くに大きな船が通っていて。カモメかウミネコか
なんかが、魚を取ろうと水面の近くまでやってきている様子、それも1羽や2羽じゃなく、何十羽、何百羽といるんだよ。
港町はずっと工事をしていているけれど、シャッターの閉まった通りは静かだから、
鳥の声だけが聞こえるんだ。」
山本「よーく見てみれば人それぞれの景色が広がるんだ。それはどんな色をしていても、色なんかなく
ても、自由に想像していいんだ。それがこの『常夜』の世界なんだ。」
詩乃「…見えてきました。足首くらいまで浸かる浅瀬、水は気持ちいいくらいの冷たさ。目線を上げる
と一面まっさらな海。空にも海にも、何もいない。それ以外何もない。青々とした空に照らされながら
海も負けじと青い。波はゆったりしているけど、そこに自分が沈んでいく姿が頭に浮かんで、(…)聞
こえてくるのは静かな波音だけ。」
(上演台本より / SCENE8 無限の宇宙と想像の海)
波や海鳥の鳴き声といった音響効果を受けて、足で触れた海水の温度にすら言及しているにもかかわらず、彼
女が「海」をイメージするとき、そこで語られているものは明らかに「光景」だといえる。そしてその違和感は、
のちに放たれる「山本」のあまりに率直な台詞へと結実することで、決定的なものとなってしまう。不意に流れ
出した音楽に促されるかたちで、彼は堰を切ったように、これまで漠然と感じていた疑念を打ち明け始める。
山本「君さ、10年前から目が見えないって言ってたよね。それってほんとにほんとに本当なんだよね?
(…)よく思い出してみて欲しい。ここは君が作り出した 君だけの世界なんじゃないかって (…)こ
こは暗闇、その記憶は君が暗闇の中に作り出した夢ではないのだろうか?」
(上演台本より / SCENE10 MC BATTLE IN THE DARK)
ただならぬその様子には、どうにも、上演の始まり、あの光を奪われた瞬間に、私自身が感じた心の揺れの片
鱗を思わせるものがあった。それは、この世界が誰かの支配下にあって、暗闇のなかで自分の姿だけが一方的に
他者から──例えば高次元や暗視スコープから──覗かれているのではないかという不安。あるいはこうとも言
えるだろう。彼が訴えているのは、本来的にただ相手から見られ続けることの不公平に耐えねばならない存在で
ある盲者の、寄る辺なさをその身に受難させられる理不尽への不満なのだ。
せいぜい80分程度の上演時間をしのぎさえすれば、再び元の明るい世界へと帰れることを前提とした私たちの
暗闇体験は、視覚への依存から脱却するには、あまりに浅いものだったのかもしれない。しかしそれは、盲目状
態が持つ本質的な弱さに対する忌避感という、暗所恐怖の一側面を直感させるには、十分なものだった。
一方で、ここに至って意識されるのは、「詩乃」が(実際のところ彼女が盲であってもなくても)本当に直面
している闇の暗さやそこに差し込んだ光の眩しさが、計測できるたぐいの照度とは次元の違うものであるらしい
という不都合だ。結局は永遠の暗闇を手探りで道行くことができなかった「山本」と私たち観客は、彼女のその
後の選択と行動を、視覚的な演出の表現なしにはうまく認識することができない。だから、「詩乃」が部屋から
出ていくラストシーンにおいて、扉から差し込むその可視の光はあくまで「光」の比喩に過ぎないのだ。そし
て、それが網膜に焼き付くような強いコントラストを伴う、紛れもない光そのものであるにもかかわらず、むし
ろそれが明らかに彼女の「闇」を象る照射として私に感じられたのは、現実の光をもたなければ相手の顔すら知かたど
ることのできない私たちには望むことの難しい、他者理解のかたちの理想もまた、そこに投影されていたからな
のかもしれない。
文章・朝倉憩